あべさんの読書メモ に記録も取っている通り、まあ、それなりに本は読む方だと思う。読んでいるのはだいたい小説か教養系が多い。出張の新幹線の中でも往復で2冊は進む。

それでも、自己啓発とかそんなことのために読んでいるわけではないから、読書家と言われると居心地の悪さを感じる。謙遜でもなんでもなく読書は娯楽なのだ。本当の読書家というのは、前職同僚の藤村さんみたいなことを言うのだろう。

仕事に必要な知識なんかはT.P.ぼんで出てくる圧縮学習が早く実装されてくれないかな、と本気で思っている。仕事のための本を読むのは今でも苦手だし、「読まなければ行けない本」は読み切るのに時間がかかっている。

もちろん、考えながら読んではいる。小説を読みながら登場人物のことを考えるのは楽しいし、特にSFで先の展開がどうなっていく予想しながら読むのは楽しい。哲学や教養系の本を読みながら、新たな視点が拡張されていくのも良い。それでも、読書から何か得ることを最優先にしてしまう読書が嫌だ。なぜだろう。

本の内容をすべて覚えているわけではない。9割方忘れてると思う。あるのは読んだ事実だけだ。記録がなければ読んだ事実さえ忘れていることがある。知らず知らずのうちに再読して「あ!」となる本との出会いも、まああるにはある。血肉になっている感覚もない。血肉になっているのであれば、もうちょっとウィットに富んだ、知的な返しができるはずだ。

すべての本が自分の好みに合うわけではない。自分の考え方を広げてくれないものもあるし、今後の人生において接点を持ちたくないくらい相容れないものもある。他社の評価をベースに、自分に合うものを効率よく摂取していればこういう読書は減っていくのだろう。これは何も得られなかった読書だろうか。

効率を重視すればまとめサービスを使うのが良いのだろう。まとめられるような本なら特に。それでもわざわざ全文を読むのはなぜなのか。読むにあたっては相手が何に対して言葉を尽くそうとしているかを知りたい。それがスポイルされるのは美学に反する。

幼い頃は小児喘息やアレルギーなどで割と病気がちだったから、娯楽は外で遊ぶことよりもゲームと本だった。小学生の頃に国語の教科書で星新一と小松左京に出会い、その後のSFへの道も引かれ、なんか面倒くさい読書遍歴にもなった。ゲーム機を持っていけない一人旅での道中、静かにいたい時など、本があれば時間は過ぎていく。そのことに支えられたことがある人間しかわからない本との関係はあるだろう。しかも安い。コスパの良い趣味である。

なぜ、読書で何かを得なければならないのか、自分が勝手に回りから感じているだけの存在もしないプレッシャーなのかはわからない。だが、読書はそういうものではない、もっとなんでもないものだと思いたいのだ。

昨日はライブラリウムがさみしくなってきたので、環境整備のために繁殖用の本を6冊入れた。少なくとも、自分の審美眼の糧にはなってるかもしれないと慰めつつ、また本を読むのだと思う。